2022メール碁会通信(26)

  2022. 7.  2

棋界ニュース

 「囲碁界の巨人・菊池康郎さんを偲ぶ」

プレーヤーとして、指導者として、アマチュアの枠を超えて囲碁界に巨大な足跡を残した故・菊池康郎さんの「偲ぶ会」がもようされ、ゆかりの人たち約200人が集まった。本紙名人戦観戦記を「春秋子」のペンネームで手がける秋山賢司さん(76)の寄稿を以下紹介しよう。

菊池康郎さんといえば、まず頭に浮かぶのはその笑顔だ。会えば必ずといっていいほど、笑顔で「やあ、ケンちゃん」と話しかけてくる。

これは私の学生時代、朝日アマチュア囲碁名人戦の前身である朝日アマチュア十傑戦の記録係のアルバイトをしていたころからの定石   だった。囲碁専門誌を主舞台として菊池さんと仕事をするのは楽しかった。面白い話が山ほど   聞けるからである。

   1985年から2年間、『棋道』で「碁に魅せられ50年」と題する菊池さんの半生を書いた。専修大学時代、碁ばかりやっていたと思ったら、そうではなかった。社交ダンスにも熱中し、学生大会の決勝まで勝ち進んだという。麻雀は覚えてすぐプロ級に。『麻雀放浪記』の作者の阿佐

   田哲也は親しい雀友だった。何をやっても一流だった。

   菊池さんの名を天下に知らしめたのが『囲碁』の高段者に対する二子局シリーズ(52、53年)だった。アマチュアが超一流のプロに二子なんてとんでもないと思われた時代、木谷實、坂田栄男、高川格らを相手に9連勝。残るは藤沢朋斎と呉清源だけになって、藤沢に敗れた。持時間   各5時間の真剣勝負。菊池さんは心血を注ぐあまり、盤側にぶっ倒れたことも一度ではなかった。

   この力量であればプロ入りしてもおかしくない。事実、二子局シリーズを主宰した菊池さんの 恩人、『囲碁』発刊の青桐社社長、岩谷泉はプロ入りを強く勧め、日本棋院と交渉したという。

   しかし岩谷は脳出血で急死。「プロにならない運命だったのでしょうね」と菊池さんは語って いた。(写真は菊池氏の遺影の前の門弟・山下啓吾九段)(略)

 

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