2021メール碁会通信(46)
2021. 11. 20
菊池康郎氏の生涯 (1) 清永 忠
アマチュア囲碁界の巨匠で、子供たちの育成機関「緑星囲碁学園」代表の菊池 康郎氏の逝去のニュースは先週号でお知らせした通りです。
菊池氏は1929年(昭4)、東京都大田区蒲田に生まれ、3歳頃に囲碁好きの父 の影響で囲碁を覚え、碁会所で腕を磨く。高輪中学時代に横浜市中山に疎開し、相原忍三段や伊藤友恵、小泉重郎らの指導を受ける。専修大学に入学後の19 48年にアマ囲碁界にデビューした。
菊池氏の輝かしい囲碁歴は2つの区分に分けられると思う。
① アマチュア打ち手時代
*1948年、「全日本アマチュア選手権戦」の 東日本大会でベスト4入りし注目され、この大会で優勝した影山利郎と親交を得る。また審判長だった安永一に認められて師事。安永の紹介で雑誌『囲碁春秋』『囲碁の友』などでプロ棋士との対局が企画され、1950年『囲碁春秋』では炭野武司六段に二子、先番で連勝する。
1950年に仲間内の研究会を作り、後に「緑星会」と命名。 1951年に関東大学囲碁リーグ戦出場のために囲碁部を作り、第1回リーグ戦では最終戦で村上文祥(早大)を破り11連勝で個人優勝するなど、学生碁界で活躍。
1952年-1953年の「圍碁」誌でのプロアマ二子局で、トッププロを相手に9連勝など、アマプロ戦で活躍。プロがアマチュアに二子で負けるわけがないと言う当時の常識を覆した。
1956年の『娯楽よみうり』誌でのアマ強豪との勝ち抜き戦では、アマチュア及びプロの大竹英雄初段に勝ち、続いて工藤紀夫二段に敗れるまで27連勝。その他にも雑誌の企画などのプロ棋士との対戦で好成績を挙げ、1959年には プロ棋戦に参加させてはどうかという提案もなされ、『棋道』誌上でも論争された。
1976年、安永一とアマ四強に、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。
*この頃、既にプロ棋士となっていた 影山利郎らにプロ入りを勧められるが、卒業後は八幡製鉄(後の新日鉄)に入社。のち株式課、秘書室を経て1981年に新日鉄を退社。また学生時代から アマチュアの研究団体「緑星会」を主宰し、村上文祥(早大➡荏原製作所)、原田実(都立大➡日立製作所)のほか、若手プロ棋士も参加した。
サラリーマン生活をしながら アマ棋戦で活躍し、アマ本因坊戦は 82年~84年まで3連覇したほか計13回優勝。92年には世界アマチュア選手権にも日本代表として出場し、第14回には世界制覇も果たした。このころ、平田博則、村上文祥、原田実と並びアマ四強(下記画像)と称され、長くアマ囲碁界に君臨した。その一方で、79年に「緑星囲碁学園」を設立し新日鉄退職後は、多くの有望な子どもたちの育成に専念した。
下の写真は: 左から 菊池、平田、村上、原田の諸氏。(平田氏のみ)(つづく)
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